日本の金工技術は装身具の制作技術として発展したと言えます。
装剣金工技術である「木目金」の歴史を装身具の歴史と共に解説いたします。
約一万二千年前の旧石器時代に装身具は生まれたと言われています。石製品の飾りから縄文時代には、骨角、貝、木製の飾りの製作が見られますが、当初は「おしゃれ」ではなく、権威の象徴、祭りごとに使う飾りや同族の証など極めて社会的な意味が強い道具として発達したようです。弥生時代以降には、青銅、ガラス、金、銀、金銅等が加わり、単なる装身具ではなく政治的・宗教的色彩の強い物として流通していました。
その後の時代も大陸から様々な工芸技術が伝わり、人々の習慣や様式の変化とともに発展し、日本の伝統文化を作り上げる重要な役割を担いました。中でも金工技術は武家社会の発展と共に武士の魂の象徴である刀と共に独自の発展を遂げたのです。そして日本の金工技術は約二百五十年余りの泰平の江戸時代に大きく花開きます。
戦が少なくなった江戸時代では、刀は戦う道具としての機能よりも身を飾る道具として発展しました。
「木目金」の最も古い作品として残る
※1出羽秋田住正阿弥伝兵衛作の小柄(小刀の持ち手)は金・銀・銅・赤銅からなる優雅な趣が特徴です。
平和になるなかで武家社会の変化と町人文化の隆盛と共に装身具の制作技術が発展します。提げ物と言われる煙管、印籠、根付等が流行し、武士や町人にも広まっていきました。町人が腰に印篭を提げ、煙管を吸っている様子は、時代劇でもお馴染のワンシーンだと思います。それぞれのコーディネイトに趣向が凝らされ、「粋や洒落」といった町人文化独特のユーモア溢れる作品が残っています。「木目金」も※2煙管や矢立(携帯用筆記用具)などの実用品の装飾に用いられるようになります。寄木細工のように、異なる色味の金属を嵌めてつくる切り嵌め象嵌の技術など、刀装具で磨かれた様々な金工技術が惜しげもなく使われたのです。
「しかし、時代は大きな転機を迎え、明治時代には急速に西欧化が進み、明治9年、帯刀禁止令が出されたのです。職を追われた刀装具の職人たちはその技術の使い道を、帯留めなどの装身具や、殖産興業の政策のもと海外への輸出品制作へと活路を見出してゆきます。「木目金」の技術も廃刀令と共に一旦は衰退し「幻の技術」と呼ばれるようになりますが、その後この技術にひかれた現代の熱意ある人々の努力によってよみがえったのです。