色の異なる金属を幾重にも重ね合わせたものを、丹念に彫って鍛え、美しい木目状の文様を作り出す日本独自の金属工芸技術(および作品)を「木目金」といいます。約四百年前、江戸時代初期、刀装具の職人だった出羽秋田住(出羽ノ国、現在の秋田県在住)正阿弥伝兵衛(しょうあみでんべい)によって考案されたといわれています。
木目金はその文様から銘木の一種、鉄刀木(たがやさん)になぞらえて、「タガヤサン地」とも称されていました。また、明治には「霞打ち」と呼ばれたこともあります。海外では「Mokume Gane」「Mokume」として広く知られています。
そして、木目金のルーツは江戸時代初期、同じく出羽秋田住正阿弥伝兵衛が考案した「グリ彫り」の鐔にはじまると伝えられています。
グリ彫りは木目金の元祖と言われています。色の異なる金属を幾重にも重ね合わせて、唐草文や渦巻文を彫り下げた金属工芸の技術です。現存するグリ彫りの鐔には数百年の時を経た今でも、美しい金属の積層を見ることができます。 グリ彫りという技術は、中国の「屈輪(ぐり)彫り」が起源だと伝えられています。「屈輪」とは、彫漆(漆を彫る技術)の一種であり、朱、黒、黄などの色漆を何層にも塗り重ねて、唐草文や渦巻文などの文様を彫り下げたものです。宋から明の時代につくりだされ、日本では室町時代より輸入され、茶道具として珍重されていた様子が当時の茶会記から読み取れます。
正阿弥伝兵衛が発案した木目金とグリ彫りの技術は、その後、舞台を江戸(東京)へと移します。そして、木目金の技術を完成させた高橋興次が現れます。
頃は江戸時代中期、高橋派の初代・高橋正次がグリ彫りの得手として活躍し、その門弟である高橋興次が、それまでの木目金の技術に新たな表現方法を加えた、吉野川図鐔、竜田川図鐔などの作品を制作しました。これらは、グリ彫りにはじまる木目金の技術の完成と言えるでしょう。
やがて、廃刀令などの影響で木目金の技術の伝承は一度途絶え、「幻の技術」と呼ばれるようになりました。しかし、これらの技術にひかれた熱意ある人々の努力によって木目金、グリ彫りの技術はよみがえりました。
木目金は多くの人々の手によって研究がくりかえされ、その歴史に新たな足跡を残しています。
そして木目金の元祖・グリ彫りも復元研究によって技術の解明が進み、現代における活きた技術としての立ち位置を見つけはじめたところです。
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